プロフィール


Knowhow

30歳を過ぎて転職しました。

その新しい職場の常務は親会社の宣伝部長だった方でした。面接を兼ねた食事を頂いた時、常務は「きみ、印刷業界でのキャリアはあるそうだがノウハウって言葉を何て訳すかね?」と話し始めました。

・・戦後英国のオースチンをライセンス生産する契約を詰めることになった。先方からの契約条文の一つに"ノウハウを提供する"というのがあって、当時辞書を引いても人に聞いてもさっぱり意味が分からなかった。相手に質問したところ、あっさりと「失敗例さ。AにBを加えてもCはできないよという大切な情報さ。君たちは無駄な時間と手間が省けるよ」と言われた。なるほど、我々はA+Bは必ずXになるという成功例(これは特許が取れる)を安直に学びたがるが、さらなる開発を進める時、ダメだったものを知らずにもう一度繰り返す必要はない。失敗の知識も大切なのさ・・・

この話を今でも大切に覚えています。

近年iPS細胞の山中伸也先生の講演会をお手伝いした時に、遺伝子の研究も膨大な組合せから駄目だったものを消去してたどり着いて行くことを知り、この「ノウハウ=失敗例」の話を思い出しました。

私に輝かしい受賞歴や評価される業績はありません。でも、印刷やデザイン、契約や営業についてのノウハウ=失敗例ならばいくらでもお話できるでしょう。

お知り合いになれたあなたの、すこしでもお力になれればと望んでいます。

My profile

絵が好きでした。中学、高校でデッサンと油絵を個人的に先生について学びました。大学は法学部でしたが長沢節のモードセミナーにも通いました。1970年大日本印刷に就職。1年間はグラビア印刷でのラーメンやガム等の軟包装資材の営業を手伝いました。永谷園のさけ茶漬けは私が担当の時発売されました。

2年目からCDC(クリエイティヴデザインセンター)に移動させてもらえ、ADとしてカレンダーのやパンフレット、会社案内、カタログなどの企画に従事しました。厳しいけれど良い会社でした。まだ写植の黎明期といった時代でした。入社11年目に「これからはイベントだ」ということで初代催事企画課長に抜擢されたのですがどうにもなじめず、退社。できたばかりの日産自動車の子会社日産グラフィックアーツに転職しました。ここでは何でも屋で、企画を立てて売り込み、営業して見積を作成、撮影の立ち会い、デザイナーへの指示、製版現場で滅点液で製版フィルムを洗って色を明るくしたり、ストリップフィルムを自分で貼ったりと、大変貴重な体験をしました。3年後、電通がSP分野を広げるため人を募集してるから紹介しようかと言ってくださる方がいらっしゃいました。魅力的でしたが、私は転職、中途採用という立場のちょっとした悲しみも味わいましたので、今度は自分でプロダクションをつくって1983年に独立する道を選びました。

たしかに、80年代後半から大手広告代理店は印刷メディアのSP分野に注力し、電通では90年代には媒体の売上に匹敵するまでの規模となりました。このSP物の企画制作こそ、従来は印刷会社がコツコツと切り拓いてきた分野でした。私も電通SP局や広告代理店を顧客にし、広告紙面の制作だけではない、印刷加工物に強いプロダクションとして活動してきました。

そしてパソコン・ワープロの時代。

私は原稿のテキスト化と電算写植のコーディングを独学し、PC98で自ら出力センターに持ち込むまでになりました。しかしあっという間にMacでDTPの波が襲ってきました。どんどん出てくる新機種、新ソフト。

紙と鉛筆があればといったデザイナー稼業は法定のパソコンの消却期間を上回るスピードの設備更新との闘いになりました。デザイナー5人分となる大変でした。

そしてバブル崩壊。

求人のため走り回り、銀行が借りろ借りろ、マンションを買いましょうから一転、今度は仕事が半減したことへの対応に苦心しました。

縮小につぐ縮小で何とか切り抜け、売上が二分の一になっても最高益を出したりして、つくずく量的成長は本当の利益追求にはならないと悟りました。

気がつけば60歳は目前、「人間は常に人生の着地点を描いていなければいけない」という曽野綾子先生の言葉に出会い、会社を極限まで縮小整理し、自分一人でやっていこうと決意し、現在外部の協力スタッフとともに一人で活動を続けています。

少ロットで速く、低価格でなければという時代、1店舗だけのポスターやPOP、小さな催しのツール、異媒体の原稿を利用してのリメイクなど、この数年の活動は時代に合った営業スタイルではないかと自負しています。私なりのノウハウを活かし最大の効果をお客様とともに考えるプランニングスタジオを目指しています。

My hobby

パソコンのためか腱鞘炎になり、リハビリに学生の時やっていた、五弦バンジョーの練習をしています。古家具の再生、陶器の金継ぎも趣味の一つです。

撮影小道具から出発し、ジオラマもつくっています。ホールインワンの記念品に立体のオブジェを依頼されたこともあります。

このブログではどこまでが仕事、どこからが趣味・・を曖昧に、見て頂きたいと思います。

History of The Company

昭和58年 広告デザインのエージェンシーとして中央区築地で株式会社エヌエイダブリュを創業。

平成17年 組織をスリム化し株式会社伝心社に社名を変更。

令和8年 伝心社を清算し合同会社エヌエイダブリュを設立、伝心社の業務を引き継ぐとともに、後継者が活躍できる幅広い商業活動を定款としました。